光の中に君を感じて・・・

どうしてこんなにも光が美しいのだろう

花の精がたたずむように見え

思わずシャッターを切る

 

桜というのは本当にはかなさと

美しさが同居していて

ひとつひとつは優しく

自己主張のない淡雪のよう

 

それなのに

一緒に咲くと

遠めにも美しく

光の中で映え情熱的だ

 

その中に神のような

樹霊のような神秘性がある

君もまたひとひらの命になって

ここにいるのか

そんな感じがした

 

無宗教の親に育てられても

自然に溶け込んだ時点で

人は仏心のような優しさを

取り戻せるのかもしれない

 

苦しみのない

幸せないのちをもらって

天のおつとめして

また天上の舞台作りとか

させてもらってたらいいな・・・

 

とそんなことを考えながら

散歩道だった境内を

君が歩いたように歩いてみた


風のそうる
風のそうる

旅立った5月に先駆けて・・・随想

        橋

高校一年16歳RYO関門海峡に立つ
高校一年16歳RYO関門海峡に立つ

       橋      

         (写真は、16の時 祖父の故郷山口へ墓参りへゆく 上宮高校一年の夏)

 

本州と九州を結ぶ関門海峡でみあげた橋

幼い頃から抱き続けた夢「世界の漫画家になる」

という小学校の文集に書いた夢を引き出しにしまって

新しい夢を抱いて歩き始めた時だ

 

16の少年の心の中で橋は

踊る捜査線で織田裕二が走りぬけたレインボーブリッジ …

演劇をすることへの夢の橋に変った

 

高校でたまたま修学旅行がドイツだった

ベルリンの壁と城壁に囲まれたその古都は

言うなれば少年の母方のそのまた祖先が生きていた場所だった。

日本の九州に渡った宣教師の血が少年を呼んだのかもしれない

先祖の霊をそこで感じたかどうかはわからないが

そのお土産はベルリンの壁のキーホルダーと

マリア像のあしらわれたペンダントだった

 

歴史の下に虐げられ、人々が

乗り越えようとした壁を前にして少年は

壁というものが 時代を問わず 誰の心にもあり

例えば、ただ暮らしの平和を愛していた民を東西、南北に分かつという

欲に駆られた権力の下にその壁はあった

民は様々なその壁を乗り越えて

本当の自由と平和を見つけたかった...

少年はその地でその歴史を感じ取ったかもしれない

 

そして自分の中にもその壁を目にして、

越える力が欲しいと思ったことだろう

生まれた育った家庭の中にも社会の中にも

因習とか思い込みとか我田引水的なしがらみに翻弄される そんな壁があるからだ

そういう目に見えない壁を少年は乗り越えるか

或いはその壁に自分なりの扉をつけて

その鍵を手にしたいと思ったに違いない

 

少年の夢は歴史と現在を取り込んだ芝居を書くことに変っていったと思われる

大学に入り演劇部に入り

喜劇「しゃもじが動いた」を書き、舞台にする

信仰などというものはしゃもじひとつでも始まるものだ

そのパロディは 

自分の中に化石となりながらも息づいていた

江戸時代に虐げられた宣教師の血を感じた流れかもしれないし

人はそのしゃもじにすら翻弄された歴史があり

今もそれは新興宗教とかの形で世にはびこっている現実がある

人間は歴史を繰り返す

その事を揶揄し、自分にもその弱さを感じていただろう

 

そして二つ目の喜劇の芝居は大学2年秋、

「どうして現場に血は流れないか」

という踊る捜査線のパロディだった

それは流行というひとつの神話に踊らされている自分自身の青春を

愛しながらもシニカルに受け止めた結果作られた

でも人間はそれでいいのだ

夢を持つことが生きることなのだから

シリアスになることはない

それをいくらでも笑いに変える力が

人間にはあるからだ

 

その現場の夢の橋を確認するように

その次の年の秋、レインボーブリッジを周遊する遊覧船に

乗る機会に恵まれた

その頃は、

予期しなかった病気の壁の前で

 心身くたくたになりながらも

世間が毒舌すらも国を滅ぼす勢いの文明に変わってゆく流れを静思し

それに酔いしれる愛すべき人間を描いた「毒と有吉と宴」を

書き続けていた

自分自身の制御できない病気を伴った運命への挑戦状だったようである

蝕んでゆくものへの恐怖と

それを回避するために取る方法の模索、

体力がないためにかなりな荒削りのままそれは舞台となった

 

人間にはいくつもの橋がある

渡らなければならない橋

渡ることを止めればそれもそのままの死を意味する

どちらにしても生きるために、渡る夢の橋は見失ってはいけない

少年はそのことを教えてくれた

 

薬づけになってゆき、その薬すらも体を攻撃する

そんな自分の体のコントロールさえままならぬ日々

舞台に立つことも

芝居を作る体力もこの先無いだろうと諦めた時

旅立つ前日に語った夢は

九州に渡って大友宗麟を研究したいというものだった。

 

16歳の時見上げた橋が

「地球進化論」世の起源を書き上げた日に見えてきた

橋は新しくこころに湧き立ってきた

人間の心、精神には必ず明暗があること

想像力でその暗さを明るくでき、創造力で生き抜ける事を

この進化論で綴り終えて少年は歩き出そうとした

だから旅立つ時

少年の目は明るさに満ちていた

行くべき夢の橋が見えたからだ

 

   ベルリンの壁のかけらのキーホルダーを

   かつてある時期少年を救ってくれた人に貰ってもらった

   夢の橋を描き続け、

   立ちはだかる壁があっても

   人間は心の中でいくらでもその壁を乗り越えられる

   その壁にさらに続く夢橋にいざなう扉をつけることもできる

   その力をその人にも持ち続けてほしかったからだ

   もちろん、そのキーは形は見えなくなっても心の中に生き続けるはずだ。

 

 旅立った5月がもうすぐ来る。

 その時、見送るしかなかった自分が、

 あいつの渡ろうとしていた橋の橋桁のひとつになれるだろうか・・・

 

                                 2013.5.1に先駆けて

 

 

上宮高校1年夢いっぱいの夏に関門海峡を眺めるRYO
上宮高校1年夢いっぱいの夏に関門海峡を眺めるRYO

 

このまなざしを

忘れない

 

夢を見る心を

忘れない君を ぼくは忘れない

 

あまりにたくさんの歴史と時間を

君は背負いすぎた

その重みは重すぎて

ぼくは救えなかった

 

でもあの最後の微笑も

忘れない

おそらく

天のどこかで

君はその前向きな清らかな目は

大切にされ 守られ 生かされていると

信じている

 

SoulRyoの暦から Dragon Quest 徒然なるままに

旅立った時間になると・・・

16:30になると あの通路の夕陽の中を戻ってきてくれる おかえりと言いたくなる

その時間、体から遊離した魂は夕陽とともに見えなくなったけれど、その同じ時にまた戻ってきてくれるかもしれないと思う 

あの夕日の中、シルエットとなってひょいと姿を見せるかもしれない

…その思いが日がたつほどに強く感じられる。戻ってこないんだなぁと思うと、夕陽に祈る。

今日も一日苦しみなく幸せに暮らしていますようにと。

お釈迦さんが慈父、阿弥陀さんが悲母になってくださるというから、お願いする。健やかに、笑顔で…せめて向こうにギターがあればいいな…と思う

 

中学、高校時代から大学にかけて書いたそうるRの詩があり、それに曲をつけた。本人が作った曲は数曲しかないが、それも含めて歌にしよう…電波と音楽、それならあいつに届くかも…

 

いつか荷物をすこしづつ減らしていくには、そうやってあいつの残した文字や歌も電波にしてしまおう。身軽になり、あいつのメッセージの石を水面に落とせたら、もしかしたらそれが波紋を生み、これから生きて苦しみを乗り越えるだれか一人の力なりヒントなりに、なれるかもしれない。その一人のために投げる石…これは自分の拙作「君一石のあるじにて候」にしたためた、幼馴染のタクロへ託した思いにもつながる。

タクロくんは自分生まれ育った町の幼馴染の少年だったが、彼もまた、文明の被害者だった。幼い日、親しかったタクロくんが被爆2世の命を閉じた時、文明というものをありがたくも、憎みもした自分がいた。その悲しみを物語の中に封印して忘れていた。忘れようとした。でも、忘れるなよとばかりに、今度は息子Rを奪われた。電磁波と血の遺伝と薬の副作用。運命という文明のナイフ。その手ごわい運命をうらみもせず乗り越えようとした前向きなあいつ…朝の光の中で微笑んでいたあいつ。

 

旅立つ日の昼間、台本を書き上げるのに二日不眠だった息子の見上げた顔を忘れられない。寝てなかったんだ…という言葉を出せなかった。寝なきゃ倒れるよ…という言葉を出せなかった。副作用でぼろぼろになった体、リンパが腫れて足をひきずっていた。「助けて」という目をしていた。でも同時に「そっとしといて、やることがあるんだ、これを書きあげないと寝れない。ぼくには時間がないんだ。寝なさいなんて言わないで。アパートに帰って」という目でもあった。最後まで聞いていたB’Zの「Ocean」どんな嵐でも手を離さないという歌詞がある。手を離してしまった。えぇい、ままよ、天に任すと祈るようにして自分のアパートに帰った。寝るんだぞ、書き上げたら寝るんだぞと祈った。

 

運命という文明の魔サメに下半身を食われたわが子が波間に翻弄されながら「助けて」と泣き出しそうな目で見上げていた。でも運命に食われていく痛みに、手を引っ張ればますます痛みが激しくなる苦痛の顔に、「痛いから離して」という目にも見えた。思わず手を離した。離してしまった。運命と天に「痛みの無い命を約束して」もらって、手を離した。そばにいてやれなかった。その手を離した悲しみから立ち直ることはおそらく永遠にできない。

 

ただ荷物を軽くして、あいつの抜け殻だけは背負える力をのこして、あいつの遺したメッセージを石にして海へ投じる。「地球進化論」と「毒と有吉と宴」そしてパソコンに遺した短編、書きかけたメモや詩の中に、無数のメッセージを見るのは自分だけかもしれない。でもその思いは、タクロくんが自分に遺した一石と同じく、自分の中ではあいつの命をのみこんだ海原に投げなくてはならない。タクロの物語の中に封印したばかりに悲しみは再び訪れた。それがひとしずくとなって波間に消えてしまう捨石になるかもしれないけれど、やはり投げなくてはならない。波紋すら起こせなくとも投げなくてはならない。二度と同じ犠牲者がでないようにというあいつのwarning…受け止めれるのは自分しかいない。手を離した張本人だから、その手のぬくもりを忘れられないから。

 

魂が消えた49日の間に、不思議な通信が何度も何度もあり、夥しい薬の副作用と治験の資料にアクセスした痕跡がある。電波の中に「たのむよ」の声を聞く。…で、「話半分」の魂の声の話に泣けた。自分もそうやって「たのむよ」の声を聞き続けたからだ。

そのたのむよにじぶんなりにできるところまで応えて、身軽になったらあいつのそばへいけるかもしれない。

 

B’ZのOceanの歌詞のように、その時はもう絶対手を離さないよと魂の君に言う。  

                              

                               2013 立春に向けて一度だけ君に

 

                                     

 

 

 

★soulmalphaの電子書籍本棚

http://p.booklog.jp/users/soulmalpha

 

これから、後継ぎなくしたお父さんが、息子を思って描きだしている落書き書画詩集を形にしたくての、土台作りです。

価格など実験的に付けてみました。お試し読みで無料で読めます。

 

23歳にして、家の十字架、文明の影を背負ったために昇天した息子へ、天国で苦しみなく幸せに暮らしていることを祈りながら、ひとつでも二つでも徳を積んだら、その息子のいる天国に近いと行けるかもしれない夢を抱いて、この土台作り続けてみます。救えなかった事への、せめて心です。

 

 

そして、彼が電波の中で、生きていると信じて、こういう電子形式にすると、息子が観て読んでくれていると思うところがあって、通信代わりに作っています。

生きてきた時間、空間、触れたもの、積み重ねてきたもの 愛しんだ書籍・・・捨てられないですね。せめて自分が地上に生きている間、静岡の彼の下宿を維持できればと、頑張ってみます。・・・というわけで、

 

小山量 形を残さず、今を、愛する仲間と楽しむ・・・それをモットーに芝居台本書いてきたようです。残された親の気持ちで、電子の形にすることを許してもらって、彼がめざした形のない新しい笑いと癒しのアートを試行錯誤してゆきますので、よろしくお願いいたします。

 

       ************* 

 

★soulmalpha 土台作りのための作品から・・・

 

誰でも人には言えない、悲しさや苦しみがあると思います。

息子も昔から延々と続いてきた時代の苦を寡黙にして受け止めて、闘病青春を乗り越えてきたことでしょう。その背景や心象をこの拙作を通じて想像していただいて、(勿論架空じたての創作ですが)、そういう悲しみや苦しみを恨むことなく前向きに生き切った息子のパワーを受け止めて、皆さんの心の中の悲しみや苦の乗り越えのヒントや力にして頂いたら嬉しいです。  量M そうる㌁

 

 

東京へ そしてここから 

量そうるMの青春決別とスタート for Dragon Quest

高円寺、阿佐ヶ谷…

そうるMのかつての青春の街 18歳~21歳、そして23歳~24歳にかけて約4年ほど過ごした街 30年ぶりの東京は雪景色の残照の中、とても静かだった。

もっとも16年前に一度、そうる量を連れて、この街を歩いた。そうる量8歳の頃か。

かつて見習いのMを雇ってくれたアニメーションの背景画会社の恩師を訪ねて、旧東京ムービーのあった永福の街から成田東の会社あたりをそうる量も歩いた。そして、その恩師から小さなそうるRは握手をしてもらった。 「絵が好きなんだね。お描きなさいよ。たくさん。」そう言われて目を輝かせていた。

 恩師にはちょうど今の量と同じくらいの大学生の息子さんS君がいて、いずれは先生の後を継がれるはずだった。そのS君にはそうるMも21歳で東京を離れる前、先生のお宅に呼ばれたときお会いしたことがある。二十歳過ぎたばかりのそうるMはお姉ちゃん代わりで、一緒に近くの平林寺を走り回って遊んだ。目の綺麗な少年は、丁度8歳のそうるRと同じくらいだったか…先生がその時、部屋の奥から出して来られて、嬉しそうに「息子の絵だよ」と見せてくださった絵が数枚あり、その天才的な見事な空想画は今でも記憶に残っている。絵は精霊を思わせる感覚的な絵で確か金色の獅子が洞窟の中にいる壁画のような絵だった。ヒマラヤとか渓谷とかを思わせる、暗くはあったけれどその垂線志向の感性のすばらしさは言葉では言い表せないものがあった。感覚的絵を、小さい時からそうるRもよく描いていたが、こちらは開放的な明るい絵で、どちらかというと平面、大陸的なものが多かった。親の欲目かもしれないが、このS君とそうる量の絵は表裏一体を感じさせる影と光を思わせたものだ。

 4年近く青春期にお世話になった先生には絵を描くことを通じてたくさんのものを教えていただいた。この界隈はそういう懐かしい時間に満ちていた。そしてその町並みはほとんど変わらない。でも住んでいる青春は違った。

 

 

 先生が功労賞をお受けになって、その祝賀会が4年前にレインボウーブリッジの埠頭で催された時、たまたま招待してくださったのは、そうるRが倒れるようになった頃だった。いつ昇天するかわからない病状から、東京、それも中学高校と「踊る走査線」の舞台で、その頃のそうるの憧れでもあったレインボーブリッジを見せてあげれる最後のチャンスかもしれないと、そのご招待に甘えた。

その時はすでにS君はそうるRより先に天空に昇られた後だった。先生のご招待に甘んじて、その時そうるRにレインボーブリッジを見せる切っ掛けを与えてくださった恩師に心から感謝している。

 

新橋駅でゆりかもめに乗った。乗車券を買うそうるR 

8歳のとき、先生と握手して、それから、いつか自分の描いた絵を先生に見てもらいたいという夢を小学校のノートに書いていた。(そのノートはごく最近大阪で見つけたのだが…)子供のときの夢は本人、もう忘れてしまっていただろうな。もうこの切符を買うそうるRは演劇のことしか考えていなかっただろうから

いつ倒れるかわからないストレスに息苦しくありながらも、レインボーブリッジを見たときは嬉しそうだった。夢に見た東京はどう見えたことだろう。東京タワーでそうるRが撮った写真は自分の座ったイスと夜景だった。そしてそこで、野田秀樹の「音をつくってやろう」のセリフを暗誦していた


そうるRの先輩の芝居観劇後、西荻に回った。

荻窪神社の向かいに建つ杉並会館の3階上はアニメーションミュージアムになっていることを、先生からお聞きしていた。まぁ、機会があったら見てくれたまえと言われていた。

東京に行く前日に、丁度観劇をはさんで、ミュージアムでは先生のこれまでの作品企画展が催されていると同期だった友人から連絡が入った。

もう、東京に行くこともないだろう。先生に連絡することもないだろう。

そう思って西荻に回った。

 

先生もそうるMも、ほぼ同じ年頃の息子を失った。

こちらから息子の昇天をお知らせしたとき、

君が追い込んだんだろう…と先生から言われた。君もボクと同じだから。

そうかもしれません…と答えた。先生はそうやってご自分を責めながら、いい作品を残してこられた。

息子さんを失った悲しみを押して…《倒れるかもしれないがまだ生きているそうるR》にレインボーブリッジを見せるチャンスを下さった先生への恩を忘れない。

 

お礼参りに先生の企画展を見せていただくことにした。

ミュージアムにも雪が残っていて、その中で懐かしい時代の先生の作品に会った。ほんとうなら、一緒にお誘いしたかった方もいたのだけれど、一人、そうるRの写真を胸に、自分も参加させてもらったガンバの冒険を見る 。

まもなく仕上がるという小川未明の「赤いろうそくと人魚」の絵本の原画は、美しくも哀しい物語に似合ったすばらしい絵だった。が、この哀しさはおそらく先生の、悲しみであると思われた。そして自分のでもある。たぶん他の作家にはあぁいうろうそくは描けなかっただろう。

 

ただの見習いの無責任な社員だった自分に、光の捉え方、影の描き方教えてくださって、それをまた小さいときの息子に伝えれた。今はそうるRの父親が絵にしてくれている。ストレートで明るい絵だ。そうるRの中にあった純粋な心がお父さんの中に残っている。

先生は苦しみを乗り越えて世界的な絵を残していかれるだろう。

ワタシラはささやかな、ココという世界で、せめてもの思いを天にいる息子に伝わるように心を作っていこう。

 

そういう「すべてははじまりです」の気持ちで東京を出た。

そうるRの先輩のおかげでそういうはじまりができてありがたいと思う。   2012.1.25

 

 

 

 

月は観ている
月は観ている

🌸思い出の静岡駿府の桜 3.19 

ようこそのページに載せました

https://tensun914.jimdo.com/

プロフィール代わり

量昇天後 名前量の文字だけが残りました 2012.5.1 

(展示会の秋11月の写真から)

翔はかせが写真ツイートでアドバイス、先祖墓探索のおかげで、昇天後3年目に行き場のなかった量くんは

観心寺さんの供養塔に入れて

いただきました。

 

その感謝の気持ちで作りだした翔月語り。翔はかせさんのお顔も本名も存じ上げませんが、7年来フォロワーさんでいてくださりました。

その名写真家の翔さんと、それからこの秋出会ったフォロワーさんたちのツイートに最後まで生きる力戴いたお礼の形として、この平成最後の思い出と祈りのtweet集制作することになりましたこと、ここにお知らせいたします。 2018.11.1 

よぼよぼ工房の展示会の搬出の写真です。どうにかお父さん(右から二番目)と手伝い人(左から二番目)

今年の展示会こぎつけて終了できました。でも二人とも腰痛と椎間板イカレで、まだ手伝い人だけ展示場台のセッティング体が動きました。火事場のバカ力保持者は自分だけですよ(苦笑)お手伝い会員さんのメンバーも写真ではまだ元気に見えますが、みんな体ガタガタヨボヨボです。来年は出来るかなぁと思いながら最終活。量くんも天の高い所から苦笑しながら観ていてくれたかな。

このページを見られてる皆さんはまだ若いはず。どうぞ日々時間という宝石を大切にしながら頑張って下さい。12.23記

 

ウイルス跋扈で

即売会もお流れになり 9月へ持ち越し。作陶生活も体の老化で難しいお父さん 今こそ好きな絵を描いて下さい。と励ましてどうにか最後まで

食いつなげたら本望でしょう。

とにかくネット嫌いのアナログ職人さんですので、春福音~日本列島ファイトの動画も観てくださったことなしで毛嫌いされてるもので、こっちはこっち、あっちはあっちで頑張ってます。それでも裸の正直でいい楽書描いてくれてます。

いつかその動画こっそり作ろうかなぁと思ってる相方ですが、そんなことを知ったら、全部焼却処分するような短気なお父さんなので ま、いいか。とにかく、日々楽しく笑顔でいてくれたらどっちが先に行くにしても 天上の量くんの足をひっぱることもないでしょう。

そんな日々。みなさんも

楽しむことが結局強い 青島さんだったか、談志さんだったか言っておられたように、どんな境涯にあっても笑って楽しむ奴が勝つ。もちろん自分にですが。ではお元気で。

     5月24日記

 

追伸

静大の植物をtwittしてくださってる方がおられます。

とても楽しみです。どうぞ

続けて下さい。量が歩いた学内構内を歩けてる気持ちになって 嬉しいです。有難うございます🌸

https://www.muryogama.com/

天寸小山量 天上14歳 令和3.3.24楽

小山量 天上 正定聚仲間入り

6.4.8 学びへ 

   天地融合平和祈念317---

   ⚾天使他力さん守り

   正定聚2年目の

  普賢 量くんお手伝いよろしく

  文殊の岡くん

    地上で元気よろしく