会場に至るまで…の不思議…静岡県立美術館への登り道。帰りもこの道下ったのだが…まるで水層の中から映した風景。不思議はここから始まった。こんな風にしか映らなかった。
種を明かすと、実は美術館に辿る森の道、途中で←表示に従って、手洗いに寄った。その時、落ちるはずも無い胸ポケットから、手を洗おうとした瞬間、携帯が飛び出した。これは要するに不注意なんですが…しかしまるで金魚のように飛び出したのですね(失笑)ちょっと誇張が入ってるか…
が、それから、あの狭い?敷地内を迷った迷った森の道。量の好きなHunter&Hunterいわく、人間は迷った時叉路に出くわすと、ほとんど左の道を選ぶという。その通り、右に行けばよかったものの…水層の時の迷路…
ま、その不思議は端折って観劇の感想といきましょ。
横道はさておき「水層の記憶」題名のつけ方がうまい。作者のMoritaさん、前作もそうだったがこの人の作品はミステリアス仕立てなのが魅力だ。
このパンフレットの開きドア部分に演出挨拶が書かれていて、その冒頭に『「起承転結」がきちんと構成された物語のようにまとまれば…』と希望的に、古典的に(?)書かれていたのだけれど…
前作の「咳」にしても、今回にしても、建前、意図しているという、その起承転結の枠というものはとっぱらって、どちらかと言うと、舞台の上では承転承転という繰り返しを見せられて、観客に起と結を考えさせてしまうという、不思議な、いい意味での狡さがあり、それが魅惑的でもある。
みんな、あぁでもない、こうでもないと想像力を逞しくさせられて、楽しまされ、何にも解決しないまま、自分の中の記憶に繋がって、ちょっと天気雨にうたれた心地よさで会場を後にする。
感想はこれに尽きているが、演出挨拶の真ん中に書かれた『たとえ一方通行でも、素敵な言葉に満ち溢れて、なんとなく感動的だったら、涙だってでちゃいます』そんな芝居を作られてますね。バトンの例えで、思いをこめたコメントはよかったです。それとマリオの一幕、さりげなくそのバトン、効いてましたね。
芝居の中にも端々に名セリフがあったんだけど、書き起こす記憶が、年のせいか薄れてしまい、残念。
湖水に沈められた命の連鎖は何層もの記憶を、波のように圧し返してはまたよみがえってくるのでしょう…と、半ば遠目に見ていたはずの湖畔の宿自体が、実は湖の底に沈んだいのちの記憶そのものだったり。
まぁ、とにかく、この作者の頭の良さは厭味なく魅力的です。次回もまた…と期待させられます。
時間軸のフラッシュバック的手法は、少し前話題になった『桐島、部活』を現代の名作にした吉田さんという監督さんも映画化するのに手がけた方法で、昔からこういう表現はあったのだろうけど、今風に、今人の感覚の波長に合わせて無理なく、そのエキスを用いて、観客自体の思考を逆行させ、反復を呈する魔術を披露されていたのは、作者にある天性の力によるだろう。
そして、今回はなんと言っても、ピアノのyamashitaさんの感性と、美術のMiwaさんのそれが、作者というランナーの手渡したバトンをうまく拾いながら、何層にもらせん状に描かれた渦水のレースを持続上昇させ、再び沈ませていったといううまさが味となっていた。miwa作金魚をくわえたモディリアニの絵は舞台ではカラーで、モチーフとしても、小道具としてもとても活きていた。あの絵がこの話の謎を解くヒントだったのだろう。
演技者も、ところどころ動作のタイミングのずれは(多分練習時間の限界)あったけれど、そのほかは息のあった静と動が見事だったと思う。
それから、一つ思ったのは、舞台のスペースに対して、テーブルの配置、客の点在に余裕がなかった。もし、狭さを工夫できるなら、会話をするテーブルだけスポットライトをあてて、周りはうっすら照明を落とすとかしたら、あの窮屈感はなかったかもしれない。もう少し舞台が広かったらな…と。
以上かいつまみの感想だったけれど、
やはりこういう名作を身内次元で見て楽しむのはもったいないと思った。それも一回70分。宇宙的に言えば、刹那という時間より短い。出会えない人の不幸を思うと、やはりかなり残念だけれど…芝居というものは、だからいいのかな。一回限りの出会える幸せ。観る者も演じる者も楽しめる瞬間である。
そして最後に、端折っていた不思議で、しめくくり。
濡れた自分の携帯、帰り道、回復したかと思って、電池を入れ、microを入れ、会館をバックに写真を撮ろうと思ったけれど、水層の中のまま、やはり鮮明には撮れなかった。しかし、坂を下りながら、あ、そうだ、と思い出して、バックに入れていたRの使っていた古い携帯、写真だけは撮れるのを思い出して、取り出すと、カメラモードにするや、画面に満天の星が降ってきて、その挙句画面の中央でスマイルマークが浮かんだ。まるで、観劇楽しかったよというメッセージのように。こんなことってあるのかな?で、結局会館の写真は撮りそこなった。
でも、結局、写真なんて、積み重ねられた記憶に勝らないよってことを教えられたような。
記憶は忘れ去られ、失われていくようでも、どうかした隙間に鮮明によみがえり何かを支え何かを生む思層となって力を生むのかもしれない。この芝居のように。 with Ryo
Ryoの遺作原稿「時計仕掛けの物語」を応募していた劇団から、8月公演の案内が来ていて、
月命日ということもあり1時間半の喜劇「うちに来るって本気ですか?」を観劇してきた。
最前列の席を確保してくださっていて、存分に鑑賞してきた。
文句なしに面白かった。舞台設定の木目細やかさから演技力のプロの明快な演技に、時を忘れた。
「役者楽しむを観る楽しみ」をめざしたRyoも天空から楽しめたのではないかな…。
ここ数日メッセージ性の強い野田さんMAPの動画鑑賞をしていたせいか、かなり重厚感に満ちた芝居ばかりに接していたもので、このechoさんの喜劇の爽快感に日干しされた感じだ。
メッセージなしで充分楽しめる芝居作り・・・というメッセージを感じた。
それと、Ryoの遺稿の面白さをどう見繕って出したところで芝居作りど素人の自分が応募した物語は、その文句なしの喜劇とは雲泥の差。
折角のいいアイデアを書き遺したRyoくんの原稿を、もったいないことしてしまったなぁと反省。(親バカなんで、息子のパソコンに書き残した時計仕掛の物語はあくまでいい作品だと思い込んでいるという。加工するわが身の拙さ、大反省しつつも、懲りないわが身の面々。Ryoよ、ごめんね)
おそらくこの親バカの苦心惨憺応募戯曲を読まれて、プロの芝居とはこういうものですと、鑑賞を促す意味でご案内くださったものと思う。
ありがたい観劇経験だった。感謝
追記:しかし、かつて見た、六畳一間の芝居は充分このレベルの方々の芝居に並べられると実感。こっちはメッセージ感が強い芝居なので、もしかしたらそれを超えるかもしれない。
六畳の彼らが、社会人になっても良質の芝居を作っていく事を願っている。そのためにも、こういうプロの方々の喜劇は時間と酒代割愛しても観ていったらいいと思う。このechoさんの今回の芝居は面白さ寿司詰めで「間」がもう少し欲しかった気もするが、その「間」はもしかしたら効果を考えて無くしたものなのかもしれない。今の時代時を忘れさせる喜劇は救いだ。どちらにしても芝居人根性見せてもらった気がした。感謝。
そうるRと一緒に最後の芝居を観て帰る。
振り返った会館の照明がまだ、あと一幕の公演を残して明るく光っていた。
先日見終わったZ・Aという殺陣は話がどうあれ、楽しませてくれた舞台だったが、やはりあれはショーとして観ていて面白かった。その再演が夜8時から始まる予定で、もし、今日、目的だった六畳一間がかなりな期待はずれだったら、もう一度Z・Aさんのショーで楽しんで帰ろうと思っていた。
しかし、期待以上に「3分間のためのカップラーメン」は最初から最後まで舞台の面白さを3人が演じきってくれた。・・で、余韻を楽しみたかったんで、そのまま帰りました。
初日の最後に午後の自転さんの「春をバカにするな」は達人の域の方々がちらっと見せてくれた珠玉の小笑劇という感じで、もう完成されているという安堵感を下さった。これからも静岡の演劇活動の試金石的な柱になって頂きたいものだと、ど素人の勝手な感想。ただ演者の年齢層から言ってもやはり完成度のたかさに魅了されはしたが、これからどう伸びるかの夢を抱かせる点では六畳の未知数的な面白さは引けをとらなかった。今回のリレーカタログの順序は前後するが、スターターとアンカーはこの二つだったと思う。六畳公演がたった一回しか上演できなかったのは学生である立場の弱さかもしれないが、こういう貴重な芽を育てるシステムが静岡にあればもっと文化は育つだろうなとは思った。因みにアンカーというのはanchor(錨)のことで、パイレーツカビリアンの船上でも観られた綱引き用語らしい。綱を引くとき一番重みのある人(物)に綱の最後尾を任すことからアンカーというそうだ。カタログも最初と最後の要となるスターターとアンカーがあり楽しませてくださり有難かった。
★追記感想1
で、身分不相応ながら思うのは、やはり演劇というのは脚本・演出両手使いの天才はなかなかいないと思う。世に出ている数人の天才は例外として、そうでない場合は、原作を作り出す人。その荒削りの骨格に潤滑油を加味でき繋ぎを入れる才能を持つ人。この二つがうまく噛み合ったときいい舞台ができるような気がする。
昨日の芝居で、昇心HBという劇団があったけれど、台本のセリフ自体は面白かったが、あれは原作者が何もかも自分の手で演出し舞台にあげ、なおかつ演者として立たれたために、それこそ台無しになったような気がする。人間、神様じゃないから、どう書くか、それをどう立ち上げるか、どう見えるかは、あの芝居の場合、分担したほうがいいものができたのではないかなぁと思った次第。
●明暗の境界の壁のパントマイムもっと強調して時間の推移を見せる演出で観客を楽しませたらよかっただろう。なにもかも中途半端だった
●衣装もレオタード式に白子と黒子という単純なシンボルで動かして、照明の明暗と左右対照的な演出効果を出すとかしたら、視覚的に面白かっただろう。
●ボーダー役をドラゴンにするのなら、そのドラゴンこそ衣装凝りまくって、前半の白子黒子と一転してちょっとサイケデリックな龍のうろこを思わせえる衣装にして(堂本くんのEndrickeなんとかいうデモで着ていた龍の衣装みたいに)変化をつけたらどうだっただろう。最後は雄たけびオンリイじゃなく、村祭りの余興っぽく(栃木県の山上げ祭りのような短時間で龍とか蛇になる舞台仕立ては参考になる)龍の蛇腹を衣装でも映像でも照明でもいいから取り入れたら面白かったかも。
雄たけびにも限界あるから、どこで終わりなの?と思わせる芝居は、演出の失敗じゃないのかな。
★追記感想2 舞台向きの人、演出やれる人、原作書く人、脚色できる人 やっぱりそれにぴったしの人はいる
百パー舞台向きの人が、舞台に出ないで演出をするとどうも終始がつかないのじゃないかと思うことがある。
今回の静大演劇部の公演はちょっとそんな感じがした。
●原作を知らないから勝手なことは言えないけど、この原作者、いしいさん?(常識なくてすんません。)という人は宮沢賢治になりたくてなれなかった人じゃないのかなぁと思った。そういう人の作品を舞台にするのは難しいように思う。空想者の意図は空想者でないとわからない。それを舞台にしようと思ったら、やはり繋ぎ完璧にしないと、観る側には難しい。脚本演出も大変だったことだろう。
●が、役者さんみんな個性的で、それぞれ原石の秘めた力を感じた。滑舌もよく、新鮮で、最後のさわやかな幕切れに思わず声援を送りたくなったが、宝石のかけら、星のかけら、もったいないことに、やや、天の川で水浴びしさせられたような感があったのが残念だった。
●今回脚本演出をされたOさんにはぜひ舞台に出てほしい。六畳一間のAさんの、存在感、舞台晴れするすごさに似たものをもっておられる気がするから。
★最後追記
演劇空間六畳一間の芝居を観たのは二回目だが、一回目もかなりいい作品で面白かった。
さりげない題材に、さりげなくないテーマを付加する見事さは本当に感服する。ささやかな誇りとして、そうるRが自分の遺作「地球進化論」をこの六畳のスタッフの方々に託したことが、嬉しく思われる。
前回のスタッフと今回のスタッフ、今後も一緒に活動されることを切に願う。
静岡の下宿から1時間自転車走行で到着
以前、草薙から桜橋付近まで通勤していたおかげで、方向音痴も、清水駅までちょっと足伸ばした感じで着くには着いたが、うっかりそれは新清水駅だったから、そこから10分移動。で、目の前にあるマリナートの建物の前を素道りして海側に立って、通行人に尋ねたら、それだよと笑われた。
で、観劇は今日5つ。
★★★★朗読 クローバーさん 子ぎつね親子がうまかった 2,3人の人もとても声がよかった
宮沢賢治の童話ってなんか落書きした原稿メモを見つけた人が完成品だと思って作品にしてしまったんじゃないのかな~というくらい話はぎっくしゃっくして思えたけれど、この人の作品はみんなこんな感じなのかもしれない。確か「よだかの星」とか「風の又三郎」とかこの人の作品だった気がするが、子供の時すっと読めたことを考えると、言葉を覚えだしたり、いろんな空想を思いつく子供の穢れなのない感覚で書かれているのかもしれないと思った。汚れて草臥れた自分の耳にはもう歪んだ変声器がついてしまって、純粋な言葉をキャッチできなくなっているのかも…トホホ(苦汗)クローバーの会で左端で演じてた女の方は特に声がよかったなぁ
●宮沢賢治の作品…何か忘れていた大切なものを思い出させてくれますね。
★★★朗演 唐人お吉 題材面白く 台本うまかった ただ、演者の人は名女優の大楠道代さんとか泉ピン子さ
んの演技力のあるような人だったが、朗読者としては声にもひとつ魅力がなかった 浪曲とかのほうがこの
人には向くような気がした。でも話の組み立てがうまいなぁと感動した
★ 朗演 「枕」 終わってから、これ誰の作品だ?とパンフレットを見直すと、あぁやっぱりかぁと思っ
た。演者の方、かなりうまい人だった。ただ前半途中のセリフを忘れたのではないかと思える不自然な間が
あったが、運よく認知症のおばぁさん役だったから、それになりきってしまわれたか…と。
あれだけのセリフをひとりで覚えるのだから無理も無いが(汗)。
ただ、あの朗々としたいい声★★★★で、もっと救いのある話を演じていただきたいと思った。
寂聴さんがお好きなのかなぁ ただ、同じ地獄に行くにも同舟したくないなぁと常々思っていた偏った頭の
わが身、身分不相応な事を書くとファンの方々から八つ裂きにされるかもしれないから、これ以上触れない
でおこう。そうならない為に、今度から芝居を観るときは誰の作品か、ちゃんとみて入場しようと思った。
注)1月に観たスピカさんの「話半分」の作者の芝居はまた観たいです。いい芝居でした。
☆ Fなんとかという劇団 少女漫画や西洋の魔女狩り神話っぽい話を演劇化するのであれば、野田秀樹さん
があの姉妹テーマの少女漫画を見事に「半神」という舞台にしたのをもっと参考に勉強して欲しい
注)同じ姉妹を取り入れたもので、静大演劇部出身のMさん作・演出「咳」(mirumeにて公演)などは、
姉妹を扱ったものとしては最高に素晴らしかった。女同士の心理を劇にするのは難しく、Mさんの場合は
成功されてると思う。
★★★★Z・A 文句無く楽しませていただきました。少々音響と立ち回りのタイミングがずれたところが2,3
ありましたが、息のあったチームワークと殺陣に、楽しみました。N・Eちゃんが、演劇カタログではこの
劇団のはぜひ見てみたいと言っていた理由がわかりました。日本の演劇という、原点はこういう野芝居にあ
ったことを再認識させていただきました。ストーリーは想像できるほうが日本人には共感を呼ぶのを上手く
取り入れ、演出もよかった。主役もよかったけど、酒飲みの棟梁の演技は特によかった。
★★★★★午後の自転 演劇の面白さをありがとうございました。最初の導入部分は愛嬌かな。松本清張さんがち
ょっと作品に顔だされた感じとよく似てましたが。
でも、全体的に思ったのは朗読・朗演の方々は一語一句聞き落とされないように 滑舌と言うのですか、活舌と言うでしょうか、言葉が全て明瞭に伝わってきて見事でした。これはみるめさんの「処置」を観た時も思ったことです。みるめの演者の方々のそれも凄かった。芝居を楽しませてもらう一番の要だと思いました。午後の自転の演者の方々の声はよく届いて、又、「間」の芝居の素晴らしさを貰いました。
23日にもう一度、後半観劇に走ります。
舞台を観るということは、ほんとうにたくさんのことを教えられます。感謝
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